一番は縄文時代
次に江戸時代
昭和のころには江戸時代生まれの人が
実在していましたが
さすがに現在は一人もいません。
江戸城のジオラマ
三代将軍家光のころまでは
天守閣がありましたが
火事で焼失した後は再建されませんでした。
明歴の大火で焼け落ち
再建費用は江戸の町の復興に
当てられたようです。
現在の政府も見習え❗
江戸の町は武家地ばかりでした
天皇朝廷からの
征夷大将軍の宣旨
大名の家格に応じて
詰め所が決められていました
江戸幕府の役職
よく知られてる町奉行は
たいした位ではなかった
長崎奉行からの風説書
スウェーデンとかが出てくる。
参勤交代は
大名の財力を削ぐには最適でした
幕末に幕府の権威が失墜した時には
参勤交代をしない場合もあったようです
上野付近の様子
小塚原は刑場のあったところです
夏場は刑死した人の死臭で
むせかえるようだったそうです。
新発田藩の藩士が描いたそうです
水墨画ですね
なかなかの画力ですね
一万石以上が大名
一万石以下で将軍に謁見できるのが旗本
それ以外が御家人です
大名旗本の家臣は陪臣と呼ばれ
将軍直属の家来ではありませんでした
領地を持っていたのは直参の
10分の1くらいですね
知行地には代官などを置いたようです
よく悪代官などといって
威張ったお代官様が時代劇に出て来ますが
身分はかなり低かったようです
徳川将軍家には独自の行事がありました
大通りは自由通路ですね
事故も多かったのでは?
交通ルールなんてなかったのでしょう
放送局なのか映画関係者なのか
取材の腕章をつけた人たちが
煌々とライトをつけて
動画撮影をしていました。
つづきます。
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